米国負の所得税実験群における労働供給への影響:雇用率と労働時間分析の厳密な評価
導入:ベーシックインカムの原型としての負の所得税実験群
ベーシックインカム(BI)の概念は、近年、世界各地でその効果を検証する実証実験が盛んに行われています。しかし、その原型ともいえる大規模な社会実験が、1960年代後半から1980年代初頭にかけて米国で実施された「負の所得税(Negative Income Tax: NIT)実験群」であることは、経済学や社会政策研究の分野では広く知られています。これらの実験は、貧困層に対する所得保障が労働供給にどのような影響を与えるかを探ることを主目的としており、現代のBI実験における雇用への影響分析の基礎を築きました。
本稿では、米国で実施された主要なNIT実験群、特にニュージャージー実験、シアトル・デンバー実験、ゲイリー実験、農村部実験に焦点を当て、それらが低所得層の雇用率、労働時間、およびその他の労働市場への参加行動に与えた影響について、当時の方法論と定量的分析結果を深く掘り下げて考察します。
実験の概要と方法論
米国におけるNIT実験群は、特定の所得水準以下の世帯に対して所得に応じて給付を行うという、現代のBI制度に近い設計を持っていました。これらの実験は、貧困対策と労働インセンティブのバランスを探ることを目的とし、厳密なランダム化比較試験(RCT)が用いられました。
実験設計と対象者
- ニュージャージー実験(New Jersey Graduated Work Incentive Experiment, 1968-1972): 都市部の貧困層世帯を対象に、様々な保証水準(BIの基本給付額に相当)と税率(所得による給付削減率)の組み合わせで給付が行われました。これは最初の大規模NIT実験であり、主に非高齢者、非障害者、夫婦世帯、単身女性世帯が対象とされました。
- シアトル・デンバー実験(Seattle and Denver Income Maintenance Experiment: SIME/DIME, 1970-1978): 最も大規模かつ長期にわたる実験で、保証水準と税率の多様な組み合わせに加え、職業訓練やカウンセリングといった人的資本投資プログラムの導入効果も検証されました。対象は白人、黒人、メキシコ系アメリカ人の都市部の低所得層世帯でした。
- ゲイリー実験(Gary Income Maintenance Experiment, 1971-1974): 黒人の都市部低所得層世帯に焦点を当て、特に夫婦関係や家族構造への影響も探られました。
- 農村部実験(Rural Income Maintenance Experiment, 1969-1972): アイオワ州とノースカロライナ州の農村部低所得層世帯を対象とし、都市部とは異なる労働市場環境での効果を検証しました。
これらの実験では、ランダムに選ばれた介入群の世帯には負の所得税が給付され、対照群の世帯には既存の福祉制度が適用されました。
データ収集と分析手法
データは、実験期間中に定期的に実施された詳細なアンケート調査や面接を通じて収集されました。これには、世帯所得、労働時間、雇用状況、職探し活動、教育への参加、健康状態、家族構成など、多岐にわたる社会経済的情報が含まれています。
分析手法としては、主に回帰分析が用いられ、介入群と対照群の間の労働供給行動の変化を統計的に比較しました。具体的には、介入による労働時間の変化、雇用率の変化、および労働市場からの退出率などを主要なアウトカム変数として分析しました。多くの研究では、Difference-in-Differences(DID)やパネルデータ分析が適用され、時間経過に伴う変化と介入効果を分離する試みがなされました。
雇用への具体的な影響分析
NIT実験群の最も重要な知見の一つは、労働供給への影響に関するものでした。多くの研究で、NIT給付の受給によって参加者の労働時間がわずかに減少する傾向が示されました。
定量的分析結果
- 労働時間の減少:
- 男性世帯主: 多くの実験で、男性世帯主の労働時間は平均して約1〜5%程度の減少が見られました。これは主に、低所得のフルタイム労働者がパートタイムに移行したり、一時的に失業期間が長引いたりすることに起因すると解釈されました。
- 女性世帯主: 女性(特に既婚女性や単身女性世帯主)の場合、労働時間の減少幅は男性よりも大きく、約10〜30%の減少が報告されたケースもありました。これは、BI給付によって家事、育児、または教育への時間配分が増加したためと考えられます。単身女性世帯主の場合、AFDC(貧困家庭扶助)といった既存の福祉制度よりもNITの方が労働インセンティブを維持するという知見も得られました。
- 若年層: 若年層においては、教育や職業訓練への参加時間が増加し、その結果として一時的に労働時間が減少する傾向が見られました。これは将来的な人的資本形成に資する可能性を示唆しています。
- 雇用率への影響: 雇用率そのものに対する明確な負の影響は、労働時間の減少ほど顕著ではありませんでした。しかし、一部のサブグループ、特に非熟練労働者や若年層において、一時的な失業期間の長期化や労働市場への参入遅延が見られたという報告もあります。これは、BI給付が職探しの「猶予期間」を与えた結果と解釈できます。
- 労働供給弾力性: NIT実験の結果は、労働供給の所得弾力性と賃金弾力性に関する貴重なデータを提供しました。概ね、低所得層における労働供給は非弾力的であるが、所得保障が与えられることでわずかながら労働供給が減少する傾向があることが示唆されました。例えば、SIME/DIMEの分析では、保証水準と税率が労働供給に与える影響がモデル化され、様々な政策シナリオの下での労働供給の変化が予測されました。
質的な変化
労働時間の減少は必ずしも負の側面ばかりではありませんでした。BI給付によって、参加者がより良い職を探すために時間をかけたり、教育やスキルアップのための訓練を受けたり、家族のケアやコミュニティ活動により積極的に参加したりといった質的な変化も報告されています。また、給付が不安定な低賃金労働からの一時的な離脱を可能にし、より安定した高賃金職への移行を促す可能性も指摘されました。
結果に関する考察と課題
NIT実験群の結果は、その後のBI議論に大きな影響を与えましたが、同時にいくつかの重要な課題と議論点を浮き彫りにしました。
他の社会経済的要因との関連性
- 既存の福祉制度との相互作用: NITは、当時の複雑な既存福祉制度(AFDC、フードスタンプなど)との代替効果や補完効果が議論されました。特に、NITがAFDCよりも労働インセンティブを阻害しない可能性が示唆されたことは重要です。
- 給付水準と税率: 労働供給への影響は、BIの保証水準と所得税率の組み合わせに大きく依存することが示されました。高すぎる保証水準や急峻な税率は、労働インセンティブをより強く減退させる可能性があります。
- 地域経済と文化: 都市部と農村部、あるいは異なる民族グループ間での結果の差異は、地域経済の構造や文化的な労働規範が労働供給行動に影響を与える可能性を示唆しています。
研究上の課題と限界
- 外部性(Spillover effects): ランダム化された実験であったものの、給付の存在が地域経済全体に与える間接的な影響(例:賃金水準への影響)は十分に捉えきれていませんでした。
- 標本選択バイアス: 実験参加の同意プロセスや、長期にわたるデータ収集における脱落者の問題など、標本選択に関する潜在的なバイアスが議論されました。
- 実験期間の限界: 数年間の実験期間では、BIが労働供給に与える長期的な影響(例:教育投資の成果、キャリアパスの変更)を完全に評価することは困難でした。
- 結果の一般化可能性: 当時の特定の社会経済的文脈(例えば、当時の失業率や社会保障制度)の下での結果が、異なる現代社会にどの程度一般化できるかという問題があります。
これらの課題にもかかわらず、NIT実験群は、社会保障制度が労働供給に与える影響を厳密に分析するための重要な枠組みと方法論を提供し、その後の経済学研究に多大な影響を与えました。
結論:現代のBI議論への示唆
米国における負の所得税実験群は、ベーシックインカム型給付が低所得層の労働供給にわずかながら負の影響を与えることを示唆しました。具体的には、労働時間のわずかな減少が見られましたが、これは必ずしも望ましくない結果とは限らず、教育投資や家族ケアへの時間配分の増加といったポジティブな側面も伴っていました。
これらの初期の知見は、現代のBI実験において雇用への影響を分析する際の重要な参照点となります。フィンランド、カナダ、ケニアなどで実施されている近年の実験は、NIT実験の教訓を踏まえつつ、より多様な文脈で、デジタル技術を活用したデータ収集や洗練された計量経済学的手法を用いて、BIが労働市場にもたらす多角的な影響を評価しようと試みています。NIT実験群が提供した厳密なデータと分析の蓄積は、今後のBIに関する政策議論と学術研究の深化に不可欠な基盤であり続けるでしょう。
参考文献:
- Munnell, Alicia H. (Ed.). (1987). Lessons from the Income Maintenance Experiments. Brookings Institution.
- SRI International. (1983). The Seattle and Denver Income Maintenance Experiments: Final Report. U.S. Department of Health and Human Services.
- Robins, Philip K. (1985). "A Comparison of the Labor Supply Findings from the Four Negative Income Tax Experiments." Journal of Human Resources, 20(4), 567-588.
- Cain, Glen G., & Watts, Harold W. (1973). Income Maintenance and Labor Supply: Econometric Studies. Academic Press.