世界のBI雇用実験

米国負の所得税実験群における労働供給への影響:雇用率と労働時間分析の厳密な評価

Tags: ベーシックインカム, 負の所得税, 雇用, 労働供給, 実験経済学, 社会実験

導入:ベーシックインカムの原型としての負の所得税実験群

ベーシックインカム(BI)の概念は、近年、世界各地でその効果を検証する実証実験が盛んに行われています。しかし、その原型ともいえる大規模な社会実験が、1960年代後半から1980年代初頭にかけて米国で実施された「負の所得税(Negative Income Tax: NIT)実験群」であることは、経済学や社会政策研究の分野では広く知られています。これらの実験は、貧困層に対する所得保障が労働供給にどのような影響を与えるかを探ることを主目的としており、現代のBI実験における雇用への影響分析の基礎を築きました。

本稿では、米国で実施された主要なNIT実験群、特にニュージャージー実験、シアトル・デンバー実験、ゲイリー実験、農村部実験に焦点を当て、それらが低所得層の雇用率、労働時間、およびその他の労働市場への参加行動に与えた影響について、当時の方法論と定量的分析結果を深く掘り下げて考察します。

実験の概要と方法論

米国におけるNIT実験群は、特定の所得水準以下の世帯に対して所得に応じて給付を行うという、現代のBI制度に近い設計を持っていました。これらの実験は、貧困対策と労働インセンティブのバランスを探ることを目的とし、厳密なランダム化比較試験(RCT)が用いられました。

実験設計と対象者

これらの実験では、ランダムに選ばれた介入群の世帯には負の所得税が給付され、対照群の世帯には既存の福祉制度が適用されました。

データ収集と分析手法

データは、実験期間中に定期的に実施された詳細なアンケート調査や面接を通じて収集されました。これには、世帯所得、労働時間、雇用状況、職探し活動、教育への参加、健康状態、家族構成など、多岐にわたる社会経済的情報が含まれています。

分析手法としては、主に回帰分析が用いられ、介入群と対照群の間の労働供給行動の変化を統計的に比較しました。具体的には、介入による労働時間の変化、雇用率の変化、および労働市場からの退出率などを主要なアウトカム変数として分析しました。多くの研究では、Difference-in-Differences(DID)やパネルデータ分析が適用され、時間経過に伴う変化と介入効果を分離する試みがなされました。

雇用への具体的な影響分析

NIT実験群の最も重要な知見の一つは、労働供給への影響に関するものでした。多くの研究で、NIT給付の受給によって参加者の労働時間がわずかに減少する傾向が示されました。

定量的分析結果

質的な変化

労働時間の減少は必ずしも負の側面ばかりではありませんでした。BI給付によって、参加者がより良い職を探すために時間をかけたり、教育やスキルアップのための訓練を受けたり、家族のケアやコミュニティ活動により積極的に参加したりといった質的な変化も報告されています。また、給付が不安定な低賃金労働からの一時的な離脱を可能にし、より安定した高賃金職への移行を促す可能性も指摘されました。

結果に関する考察と課題

NIT実験群の結果は、その後のBI議論に大きな影響を与えましたが、同時にいくつかの重要な課題と議論点を浮き彫りにしました。

他の社会経済的要因との関連性

研究上の課題と限界

これらの課題にもかかわらず、NIT実験群は、社会保障制度が労働供給に与える影響を厳密に分析するための重要な枠組みと方法論を提供し、その後の経済学研究に多大な影響を与えました。

結論:現代のBI議論への示唆

米国における負の所得税実験群は、ベーシックインカム型給付が低所得層の労働供給にわずかながら負の影響を与えることを示唆しました。具体的には、労働時間のわずかな減少が見られましたが、これは必ずしも望ましくない結果とは限らず、教育投資や家族ケアへの時間配分の増加といったポジティブな側面も伴っていました。

これらの初期の知見は、現代のBI実験において雇用への影響を分析する際の重要な参照点となります。フィンランド、カナダ、ケニアなどで実施されている近年の実験は、NIT実験の教訓を踏まえつつ、より多様な文脈で、デジタル技術を活用したデータ収集や洗練された計量経済学的手法を用いて、BIが労働市場にもたらす多角的な影響を評価しようと試みています。NIT実験群が提供した厳密なデータと分析の蓄積は、今後のBIに関する政策議論と学術研究の深化に不可欠な基盤であり続けるでしょう。

参考文献: